『最高のがん治療』勝俣範之・津川友介・大須賀覚 ダイヤモンド社 2020年

日本の抗癌剤治療のパイオニア勝俣医師(日本医科大)をはじめ、がん治療の第一人者たちが執筆。がんに罹っている人、家族知人にがん患者さんがおられる人は多い。正しいがん治療の知識をつけておこう。怪しい民間療法が蔓延している。医療情報はウソが多い。取り返しのつかないことにならないように。
────────────────────
◆標準治療
がんの治療は保険がきく「標準治療」と呼ばれるものから始まる。それが「最高の治療法」である。標準治療の実費はとても高額である。がんの手術は100万円を超す費用がかかる。抗がん剤治療も高額の費用がかかっている。保険が適用されるから心配ない。
研究者が新しいがん治療薬を開発しても、新薬として承認されるのは1万分の1しかない。抗がん剤を1つ開発するのには700~800億円かかる。承認されるまでには約15年かかる。本庶佑(ノーベル賞受賞)博士がPD1という分子を発見してから、オプジーボというがん治療薬として製品化されるまでに22年かかっている。
◆代替療法
クリニックなど保険外で行われている自由診療や、病院外で行われている民間療法などは「代替療法」と呼ばれ、科学的根拠がないものがほとんどである。代替療法のうち民間療法とは、「健康食品、サプリメント、ヨガ、マッサージなど」医療機関以外で行われている治療法である。
標準治療を受けずに代替療法を受けているがん患者ほど、生存率が低い。大腸がんの6年後の生存率は、標準治療では80%に対して、代替療法のみでは約35%だった(著者らの研究による)。代替療法のうち自由診療に、科学的根拠があるならば、標準治療として保険適用になっているはずだ。がんを縮小させたり、延命効果をしめしたりする治療効果があると証明された民間療法はひとつもない。
民間療法の広告では個人の体験談が載っている。するとその治療法・サプリなどにはさも効果があるように見える。ウソの多くは個別の例の成績をでっちあげたものがある。そこで数百例のデータがあるかどうかを見る。数百人規模の治療データをでっちあげるのは困難であるからだ。
◆緩和ケア
もう治療法はないと言われても、あきらめることはない。緩和ケアは有効で、標準治療のひとつである。早期に緩和ケアを導入することは、延命効果をもたらすだけでなく、メリットの少ない終末期の抗がん剤を減らし、生活の質も向上させる。
◆医療情報はウソが多い
どんなにインターネットで調べようが、専門的な医療、がんの知識がなければ、医療情報の判断はできない。判断できない者がインターネットや本を調べていると、トンデモ医療にたくさん触れることになり、信じ、はまってしまう危険がある。SNSには仕掛け(アルゴリズム)が働いていて、何かを見ると、それに関連する情報がどんどん出てくる。医師に聞くべきである。
医療情報はウソが入りやすい。真偽がわかりにくいからである。内容が専門的であり、すぐに確かめることもできないものが多い。専門家はトンデモ医療の情報に関わりたくない。批判すると熱烈な信者がから痛烈な非難を受けるからである。
インターネットで好まれ大きく広がる情報は、「目新しい」「斬新」「単純明快」「インパクトがある」「陰謀めいている」という特徴がある。過激なウソほど広がりやすい。
※[新型コロナの情報]
医療情報と同じく、根拠のない情報が拡散しているのとよく似ている。コロナは風邪と同じ、マスクに効果なし、ワクチンは人が死ぬ、など。
本のネット通販のがんカテゴリー・ランキング上位の本を読むと、科学的に正確な内容のものは1/4ほどしかなかった(著者らの調べによる)。根拠のない民間療法で「がんが治る」と宣伝すると、薬機法という法律違反になる。それが、トンデモ医療で、「○○療法でがんが消えた」という本のタイトルにすれば、法律違反にならない。本はトンデモ情報を合法的に広告する抜け道になっている。新聞広告に怪しいものがある。
◆免疫をあげてもがんは治らない
がんを倒すのに免疫細胞が大事であるが、何かで免疫力を高め、がんを治療しようという考えは何十年も前の古い手法で、ほとんど効果が得られない。そもそも、「自分の免疫細胞では倒せない」から、がんが増えているのであって、がんを倒すことができない免疫細胞を多少増やしても意味がない。
この食品を食べれば免疫力が上がるという広告があるが、科学的根拠がない。特定の食品の接種や行動をすると、がんを倒せるほど免疫力が上がるという事実は確認されていない。健康な人が食生活を変えることでがんになるリスクを下げることはできる。しかし、一度がんになってしまった人が食生活を変えても、それでがんを治すことはできない。
※[現代のがん免疫療法]
1980年代までのがん免疫療法は、非特異的免疫療法といわれ「患者様自身の免疫力」の底上げをするものだった。1990年代からの樹状細胞ワクチン療法では、「特異的免疫療法」といわれ、がん細胞に絞って集中的に攻撃する治療法。

日本の抗癌剤治療のパイオニア勝俣医師(日本医科大)をはじめ、がん治療の第一人者たちが執筆。がんに罹っている人、家族知人にがん患者さんがおられる人は多い。正しいがん治療の知識をつけておこう。怪しい民間療法が蔓延している。医療情報はウソが多い。取り返しのつかないことにならないように。
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◆標準治療
がんの治療は保険がきく「標準治療」と呼ばれるものから始まる。それが「最高の治療法」である。標準治療の実費はとても高額である。がんの手術は100万円を超す費用がかかる。抗がん剤治療も高額の費用がかかっている。保険が適用されるから心配ない。
研究者が新しいがん治療薬を開発しても、新薬として承認されるのは1万分の1しかない。抗がん剤を1つ開発するのには700~800億円かかる。承認されるまでには約15年かかる。本庶佑(ノーベル賞受賞)博士がPD1という分子を発見してから、オプジーボというがん治療薬として製品化されるまでに22年かかっている。
◆代替療法
クリニックなど保険外で行われている自由診療や、病院外で行われている民間療法などは「代替療法」と呼ばれ、科学的根拠がないものがほとんどである。代替療法のうち民間療法とは、「健康食品、サプリメント、ヨガ、マッサージなど」医療機関以外で行われている治療法である。
標準治療を受けずに代替療法を受けているがん患者ほど、生存率が低い。大腸がんの6年後の生存率は、標準治療では80%に対して、代替療法のみでは約35%だった(著者らの研究による)。代替療法のうち自由診療に、科学的根拠があるならば、標準治療として保険適用になっているはずだ。がんを縮小させたり、延命効果をしめしたりする治療効果があると証明された民間療法はひとつもない。
民間療法の広告では個人の体験談が載っている。するとその治療法・サプリなどにはさも効果があるように見える。ウソの多くは個別の例の成績をでっちあげたものがある。そこで数百例のデータがあるかどうかを見る。数百人規模の治療データをでっちあげるのは困難であるからだ。
◆緩和ケア
もう治療法はないと言われても、あきらめることはない。緩和ケアは有効で、標準治療のひとつである。早期に緩和ケアを導入することは、延命効果をもたらすだけでなく、メリットの少ない終末期の抗がん剤を減らし、生活の質も向上させる。
◆医療情報はウソが多い
どんなにインターネットで調べようが、専門的な医療、がんの知識がなければ、医療情報の判断はできない。判断できない者がインターネットや本を調べていると、トンデモ医療にたくさん触れることになり、信じ、はまってしまう危険がある。SNSには仕掛け(アルゴリズム)が働いていて、何かを見ると、それに関連する情報がどんどん出てくる。医師に聞くべきである。
医療情報はウソが入りやすい。真偽がわかりにくいからである。内容が専門的であり、すぐに確かめることもできないものが多い。専門家はトンデモ医療の情報に関わりたくない。批判すると熱烈な信者がから痛烈な非難を受けるからである。
インターネットで好まれ大きく広がる情報は、「目新しい」「斬新」「単純明快」「インパクトがある」「陰謀めいている」という特徴がある。過激なウソほど広がりやすい。
※[新型コロナの情報]
医療情報と同じく、根拠のない情報が拡散しているのとよく似ている。コロナは風邪と同じ、マスクに効果なし、ワクチンは人が死ぬ、など。
本のネット通販のがんカテゴリー・ランキング上位の本を読むと、科学的に正確な内容のものは1/4ほどしかなかった(著者らの調べによる)。根拠のない民間療法で「がんが治る」と宣伝すると、薬機法という法律違反になる。それが、トンデモ医療で、「○○療法でがんが消えた」という本のタイトルにすれば、法律違反にならない。本はトンデモ情報を合法的に広告する抜け道になっている。新聞広告に怪しいものがある。
◆免疫をあげてもがんは治らない
がんを倒すのに免疫細胞が大事であるが、何かで免疫力を高め、がんを治療しようという考えは何十年も前の古い手法で、ほとんど効果が得られない。そもそも、「自分の免疫細胞では倒せない」から、がんが増えているのであって、がんを倒すことができない免疫細胞を多少増やしても意味がない。
この食品を食べれば免疫力が上がるという広告があるが、科学的根拠がない。特定の食品の接種や行動をすると、がんを倒せるほど免疫力が上がるという事実は確認されていない。健康な人が食生活を変えることでがんになるリスクを下げることはできる。しかし、一度がんになってしまった人が食生活を変えても、それでがんを治すことはできない。
※[現代のがん免疫療法]
1980年代までのがん免疫療法は、非特異的免疫療法といわれ「患者様自身の免疫力」の底上げをするものだった。1990年代からの樹状細胞ワクチン療法では、「特異的免疫療法」といわれ、がん細胞に絞って集中的に攻撃する治療法。
2022/09/11 (日) [本・雑誌]
『ひろさちやの笑って死ぬヒント』青春出版社 2010年

◆(著者)ひろさちや
仏教の入門書・解説書を多く出しているが、僧侶でも仏教学者でもない。東大インド哲学科卒の教育者、仏教的人生論の著者というところ。共著は別にして著作は289冊もあった。伝統的な仏教者ではないので、発想が自由である。いわゆる宗教的な雰囲気がないので、親しまれやすく、話がひろがっていくのがおもしろい。
◆命は誰のものか?
誰もが、自分の命は自分のものだと思っている。
「命は仏さまから預かっているもの」
だと考える。死ぬということは、仏の国に帰ることになる。すると、死ぬこともそれほど悪くない。むしろ感謝の気持が湧いてくる。
(※感想)これが本書の核心である。命は自分のものじゃない!
死というのは、天命が向こうからやってきただけに過ぎない。それが早いか遅いかは、仏さまや神さまが決める。ところが、わたしたちは死を迎えることを失敗ととらえてしまう。失敗ととらえるから、天命がやってきただけなのに、なんで自分が死なないといけないんだ、という疑問や不満がでてくる。
死ぬということは、仏さまが「もう帰って来い」とお迎えに来たから帰ることだし、神様が「もう死ね」と言ったら死ぬことだ。それは神様の責任だから、葬式も遺言も気に病む必要はない。神様があとは全部面倒を見てくれる。それが宗教である。
基本的に「明日のことを考えないでいい」というのが宗教の本質だ。将来のことを悩んでもしかたない。
(※感想)いいなこの考え。気楽でいい、ということだ。いろいろ考えしまうことがあるが、そんなものをさっさと捨てて、身軽になって気軽になる。
◆人は徐々に死んでいく
西洋文化では、死は自分の外から来ると考える。死を一つの点としてとらえる。死ぬまでは死んでいない。死ぬまでは百パーセント生きている、と考える。その点をできるだけ先に延ばしたいと願う。死なないように必死に戦う。
仏教的な考えでは、死は一点ではなく、ずっと自分に内在している。死は年月を経るごとに、自分の中に死のパーセンテージが増えてきて、終わる。100%になると死者となり、仏の国に行ける。死は自分が生きるなかに存在している。「老、病、死と戦うな」というのが生き方の基本となる。
◆死ぬのが怖い
それでいい。怖がったまま、怯えてただ死ねばいいのである。美しく死にたい、遺族に惜しまれたいなどと余計なことを考えるな。医学が進歩し、死期が延びるようになった。少しだが。すると天命を迎えているのに、治療が十分でなかったとか、不満が生まれる。
(※感想)たまに、死ぬのが怖くないという人がいる。悟っているのかどうかしらないが、自分が死ぬのが怖くない人は、他人の命も大事だとは思っていない。以前、テロリスト集団・イスラム国に参加しようとした日本人学生がいたが、彼は自分は死ぬことは怖くないと言っていたそうだ。そうだろう、だから人が殺せるんだ。
◆負けたと思ったら降伏しろ…もう戦うな
先の戦争において、アメリカ軍の内部では、部隊の構成員の15%の戦死者が出たら、戦闘の続行をあきらめて投降しろというのが、不文律だった。ところが日本軍は、戦死者が部隊の80%を超えても、投降するのは臆病者だとされ、最後まで戦うことを強いられた。
同様に、病気に対する考え方でも、ある程度戦ってみて敗色が濃厚になってくれば、さっさと負ければいいのである。がんと戦うこと自体はけっして悪くはないが、敗色が濃厚になったらいち早く降参する。
老人になったら老人らしくする。老いと仲良くしつつ、できるだけ枯れて生きていく。自分の中に老いを感じたら、それは神様や仏さまに近づいたと思って喜ぼう。
(※感想)なんでもかんでもポジティブ、アクティブというのは疲れる。体力がどんどん落ちてきているのに、戦えというのは酷というものだ。受け入れよう。十分に働いたからだをいたわってやろう。休むこと、さぼること、怠けること、どれも大事なことじゃないのか。ずっとそうでも、いられないから、悪いことではない。
◆人生には意味がない?
会社のため、仕事のため、社会のために生きなさいと世間は言っている。人は人生に意味や目的を求めて、人生の成功者を目指す。それが人生の美学だ。
しかし現実は、人生の意味を探そうと悩んだり、他の人と自分の人生を比べて劣等感を抱いたり、苦しくなることが多い。老齢となると、何も残すことなく死ぬのがやりきれなくなり、何のために生きてきたのか後悔するようになる。
ところが……。「人生には意味も目的もない」
サマセット・モームの小説『人間の絆』に出てくることばである。なげやりでも、厭世的な意味でもない。人生に意味があるなんて考えるとろくなことにならないからである。意味も目的もないなら、肩の力を抜いて人生を生きることができる。
(※感想)逆説のようだが、人生に意味がないというのは楽でもある。変な使命感に縛られることはない。神さま、仏さまがこの命を貸してくれたんだから、仮に意味があったとしても神仏にお任せすれば良い。そもそも人間ごときが、偉そうに「意味」などという人間特有の考えで評価すべきでない。あらゆる生命は、意味などなしに生きて死ぬ。それでいい。これが地球の、宇宙の掟だ。
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命を考えるシリーズ No.9

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◆(著者)ひろさちや
仏教の入門書・解説書を多く出しているが、僧侶でも仏教学者でもない。東大インド哲学科卒の教育者、仏教的人生論の著者というところ。共著は別にして著作は289冊もあった。伝統的な仏教者ではないので、発想が自由である。いわゆる宗教的な雰囲気がないので、親しまれやすく、話がひろがっていくのがおもしろい。
◆命は誰のものか?
誰もが、自分の命は自分のものだと思っている。
「命は仏さまから預かっているもの」
だと考える。死ぬということは、仏の国に帰ることになる。すると、死ぬこともそれほど悪くない。むしろ感謝の気持が湧いてくる。
(※感想)これが本書の核心である。命は自分のものじゃない!
死というのは、天命が向こうからやってきただけに過ぎない。それが早いか遅いかは、仏さまや神さまが決める。ところが、わたしたちは死を迎えることを失敗ととらえてしまう。失敗ととらえるから、天命がやってきただけなのに、なんで自分が死なないといけないんだ、という疑問や不満がでてくる。
死ぬということは、仏さまが「もう帰って来い」とお迎えに来たから帰ることだし、神様が「もう死ね」と言ったら死ぬことだ。それは神様の責任だから、葬式も遺言も気に病む必要はない。神様があとは全部面倒を見てくれる。それが宗教である。
基本的に「明日のことを考えないでいい」というのが宗教の本質だ。将来のことを悩んでもしかたない。
(※感想)いいなこの考え。気楽でいい、ということだ。いろいろ考えしまうことがあるが、そんなものをさっさと捨てて、身軽になって気軽になる。
◆人は徐々に死んでいく
西洋文化では、死は自分の外から来ると考える。死を一つの点としてとらえる。死ぬまでは死んでいない。死ぬまでは百パーセント生きている、と考える。その点をできるだけ先に延ばしたいと願う。死なないように必死に戦う。
仏教的な考えでは、死は一点ではなく、ずっと自分に内在している。死は年月を経るごとに、自分の中に死のパーセンテージが増えてきて、終わる。100%になると死者となり、仏の国に行ける。死は自分が生きるなかに存在している。「老、病、死と戦うな」というのが生き方の基本となる。
◆死ぬのが怖い
それでいい。怖がったまま、怯えてただ死ねばいいのである。美しく死にたい、遺族に惜しまれたいなどと余計なことを考えるな。医学が進歩し、死期が延びるようになった。少しだが。すると天命を迎えているのに、治療が十分でなかったとか、不満が生まれる。
(※感想)たまに、死ぬのが怖くないという人がいる。悟っているのかどうかしらないが、自分が死ぬのが怖くない人は、他人の命も大事だとは思っていない。以前、テロリスト集団・イスラム国に参加しようとした日本人学生がいたが、彼は自分は死ぬことは怖くないと言っていたそうだ。そうだろう、だから人が殺せるんだ。
◆負けたと思ったら降伏しろ…もう戦うな
先の戦争において、アメリカ軍の内部では、部隊の構成員の15%の戦死者が出たら、戦闘の続行をあきらめて投降しろというのが、不文律だった。ところが日本軍は、戦死者が部隊の80%を超えても、投降するのは臆病者だとされ、最後まで戦うことを強いられた。
同様に、病気に対する考え方でも、ある程度戦ってみて敗色が濃厚になってくれば、さっさと負ければいいのである。がんと戦うこと自体はけっして悪くはないが、敗色が濃厚になったらいち早く降参する。
老人になったら老人らしくする。老いと仲良くしつつ、できるだけ枯れて生きていく。自分の中に老いを感じたら、それは神様や仏さまに近づいたと思って喜ぼう。
(※感想)なんでもかんでもポジティブ、アクティブというのは疲れる。体力がどんどん落ちてきているのに、戦えというのは酷というものだ。受け入れよう。十分に働いたからだをいたわってやろう。休むこと、さぼること、怠けること、どれも大事なことじゃないのか。ずっとそうでも、いられないから、悪いことではない。
◆人生には意味がない?
会社のため、仕事のため、社会のために生きなさいと世間は言っている。人は人生に意味や目的を求めて、人生の成功者を目指す。それが人生の美学だ。
しかし現実は、人生の意味を探そうと悩んだり、他の人と自分の人生を比べて劣等感を抱いたり、苦しくなることが多い。老齢となると、何も残すことなく死ぬのがやりきれなくなり、何のために生きてきたのか後悔するようになる。
ところが……。「人生には意味も目的もない」
サマセット・モームの小説『人間の絆』に出てくることばである。なげやりでも、厭世的な意味でもない。人生に意味があるなんて考えるとろくなことにならないからである。意味も目的もないなら、肩の力を抜いて人生を生きることができる。
(※感想)逆説のようだが、人生に意味がないというのは楽でもある。変な使命感に縛られることはない。神さま、仏さまがこの命を貸してくれたんだから、仮に意味があったとしても神仏にお任せすれば良い。そもそも人間ごときが、偉そうに「意味」などという人間特有の考えで評価すべきでない。あらゆる生命は、意味などなしに生きて死ぬ。それでいい。これが地球の、宇宙の掟だ。
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2022/01/04 (火) [命を考えるシリーズ]

「いい人生は、最後の5年で決まる」樋野興夫 SBクリエイティブ 2017年
自分の命は自分のものじゃない
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◆病人に「がんばれ」は一時しのぎ
著者は順天堂大学医学部教授。がん哲学外来・理事長3,000人を超えるがん患者とその家族と対話した。死の恐怖に怯え、人生を見失った人たちと向き合っている。
お医者さんが書いた本で一番良かった。患者の不安な心理をよく理解して、こうすればいいというアドバイスをくれる。家族や友人が患者にどう向き合えばいいかが、よくわかる。従来の本は、患者に向けて「頑張れ」という内容がほとんどだった。それでは一時しのぎの励ましにしかならない。患者への寄り添い方を周囲の人も学ぶべきである。
◆空から自分を見る
「明日死んでもいい」という覚悟をもって生きる。自分ではコントロールできないことに一喜一憂しなくなる。自分を俯瞰する目ができるから。自分を客観的に見られるようになると、物事を大げさに考えないようになる。空の上から、人生という道路を走っている車のように自分を見る。
◆過去は捨て置け・未来を憂慮するな
過去はどうでもいい。さらっと忘れよう。どうせなるようにしかならない。これまでの生き方は放っておく。過去を反省しようと、後悔しようと何も変わらない。また、将来に対しての不安なども放っておけ。見えないものに一喜一憂するな。何かが起こればそのときに考えればいい。
◆こころがけ、色々
*毎日を楽しむ。一番苦しんでいる人の笑顔は周りを勇気づける。悲壮感を漂わせていたら、周りが嫌う。みんな去っていく。
*曖昧なことは曖昧にしておけばいい。その方が科学的。わからないことを「こうだ」などと断言するのが一番いけない。薬も治療も断言はできない。
*苦しみや悲しみによって、忍耐が生まれる。人間関係は難しい。変えられないならば放っておく。こだわっても仕方ない。自分の基軸がぶれないように生きる。
◆自分の命は自分のものじゃない
私達の命は天から与えられたものであり、自分の所有物ではない。
与えられたものは大切にすべきですし、この世を去る時にはそっと返す必要があります。
(これが一番大切な教えだと思う。
自分の命を自分のものだと思いがちだが、自分の意志で生まれた訳ではない。自分のものだと思うと、自分の死は諦めきれない不条理・理不尽なことだ。怖いことだ。
でも自分のものじゃないとしたら、どうしようもない。今までありがとうと感謝するしかない。死ぬ瞬間に「いい人生だった」と最後を迎えるためには、今日できることをする。それだけだ)
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命を考えるシリーズ No.8

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2021/12/07 (火) [命を考えるシリーズ]
「老境との向き合い方/甲野善紀」山と渓谷社 2021年

甲野さんは「古武術」を復興したイメージがあるが、むしろ武術の枠を越えた身体技法の研究家である。介護にも役に立つ技もある。
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◆70歳を越えても、技は進化する
著者は今年で72歳。運動能力はさすがに衰えがある。しかし年を重ねた今のほうが技ができる状態にある。人間はどういう感覚を、どう使って動くのかということが次第にわかってきて、技が改良されていくからである。
(年寄りは老けこんではいかん。)
◆大量虐殺で経済・生活がなりたっている
著者は学生時代、牧畜をやりながら自然の中で暮らしたいと思い、農業大学の畜産学科に入った。実習の現場で体験したことは、鶏の孵卵場でヒナを鑑別してメスだけを出荷し、「不要な」オスのヒナは掘られた穴に生きたまま捨てられる。ヒナは悲鳴をあげて死んでいった。現在は、生きたまま機械で粉砕シュレッダーされている。卵が物価の優等生であることは、こうした背景がある。
著者は、生命を踏みにじった上に現代社会の経済や生活は成り立っていると気づいた。畜産の道に進むことは断念した。人間にとって自然とは何か、ということを考えるようになり、武術をはじめるきっかけになった。
(ヒナがシュレッダーされる動画があるが、見ないほうがよい。人間のひどさがわかって人間不信・自己嫌悪になる)
◆情けない老人たち
新型コロナに際して、高齢者が若者に対して、「お前らが出歩くせいで感染が拡大する」となじることが少なからずあったそうだ。どんな生物でも老いた者から消えていくのが当然のこと、高齢者が重症化しやすく、若い人は重症化しにくくて良かったと、思うのが本来のことでないか。若い人の生活を追いつめてまで、自分の余命を延ばしたいと考えるのは情けない。自分はもう十分に生きたのだから、感染して死んだとしても構わないという心持ちになれないのか。人が成長していった証として、年を重ねるに従いいつ死んでも悔いはない、という思いが育まれているか・覚悟があるかどうかである。
(老人が老人を叱っている。年寄るとわがままになるからなあ)
◆恐怖を消す技「蓮の蕾(はすのつぼみ)」
恐れや不安を感じたときには横隔膜が縮み上がる。横隔膜が上がらないように身体をもっていくと、恐れ・不安を感じられなくなる。高所から下を見ても、リアルさがなくなり、他人事ように見える。大事な場面での緊張感も平常心になる。
(方法)両手とも、手のひらの中央をくぼませる→親指、人差し指、小指の三本の指先を丸めて、蕾のように寄せた状態にする→両手の薬指同士を絡ませて、手の甲側へ薬指が引っ張られるようにして、右手は左に、左手は右に互い違いに押し合うようにする→肩を下げる。
(この技を身につけたい。ただ恐怖心・不安感は自分守るための反応でもあるから、乱用はいかん)
◆自分流の開祖になれ
著者は29歳のときに作った武術研究会を25年後に解散した。会では段位や階級を作らなかった。武道界では段位で身分差があるような嫌な面があるからである。いつのまにか、自分の主宰する会でも、見えないランク付けが生まれてきた。会のままだと、所属していることでの満足感や帰属意識が生まれ、形式に縛られる。
稽古会は続けているが、他のいろんな流儀を本格的に学びに行く人が増え、参加する人の実力や研究も深まっている。稽古会は教える人と教わる人という一方的な関係ではなく、一人ひとりが自分流の開祖になることを目指している。各自が自分流の開祖をめざせば、面倒な組織内での勢力争いや複雑な人間関係は生じない。門弟同士の嫉妬や足の引っ張り合いは、武道の世界だけでなく、一般の会社でも上位のポストを狙ってややこしい人間関係が生じやすい。
(地位や肩書に固執する武道家というのも、器が小さいと思う)
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命を考えるシリーズ No.7
(これまで、死を考えるシリーズとしていたが、死という言葉は縁起が悪いんでやめとく)

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甲野さんは「古武術」を復興したイメージがあるが、むしろ武術の枠を越えた身体技法の研究家である。介護にも役に立つ技もある。
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◆70歳を越えても、技は進化する
著者は今年で72歳。運動能力はさすがに衰えがある。しかし年を重ねた今のほうが技ができる状態にある。人間はどういう感覚を、どう使って動くのかということが次第にわかってきて、技が改良されていくからである。
(年寄りは老けこんではいかん。)
◆大量虐殺で経済・生活がなりたっている
著者は学生時代、牧畜をやりながら自然の中で暮らしたいと思い、農業大学の畜産学科に入った。実習の現場で体験したことは、鶏の孵卵場でヒナを鑑別してメスだけを出荷し、「不要な」オスのヒナは掘られた穴に生きたまま捨てられる。ヒナは悲鳴をあげて死んでいった。現在は、生きたまま機械で粉砕シュレッダーされている。卵が物価の優等生であることは、こうした背景がある。
著者は、生命を踏みにじった上に現代社会の経済や生活は成り立っていると気づいた。畜産の道に進むことは断念した。人間にとって自然とは何か、ということを考えるようになり、武術をはじめるきっかけになった。
(ヒナがシュレッダーされる動画があるが、見ないほうがよい。人間のひどさがわかって人間不信・自己嫌悪になる)
◆情けない老人たち
新型コロナに際して、高齢者が若者に対して、「お前らが出歩くせいで感染が拡大する」となじることが少なからずあったそうだ。どんな生物でも老いた者から消えていくのが当然のこと、高齢者が重症化しやすく、若い人は重症化しにくくて良かったと、思うのが本来のことでないか。若い人の生活を追いつめてまで、自分の余命を延ばしたいと考えるのは情けない。自分はもう十分に生きたのだから、感染して死んだとしても構わないという心持ちになれないのか。人が成長していった証として、年を重ねるに従いいつ死んでも悔いはない、という思いが育まれているか・覚悟があるかどうかである。
(老人が老人を叱っている。年寄るとわがままになるからなあ)
◆恐怖を消す技「蓮の蕾(はすのつぼみ)」
恐れや不安を感じたときには横隔膜が縮み上がる。横隔膜が上がらないように身体をもっていくと、恐れ・不安を感じられなくなる。高所から下を見ても、リアルさがなくなり、他人事ように見える。大事な場面での緊張感も平常心になる。
(方法)両手とも、手のひらの中央をくぼませる→親指、人差し指、小指の三本の指先を丸めて、蕾のように寄せた状態にする→両手の薬指同士を絡ませて、手の甲側へ薬指が引っ張られるようにして、右手は左に、左手は右に互い違いに押し合うようにする→肩を下げる。
(この技を身につけたい。ただ恐怖心・不安感は自分守るための反応でもあるから、乱用はいかん)
◆自分流の開祖になれ
著者は29歳のときに作った武術研究会を25年後に解散した。会では段位や階級を作らなかった。武道界では段位で身分差があるような嫌な面があるからである。いつのまにか、自分の主宰する会でも、見えないランク付けが生まれてきた。会のままだと、所属していることでの満足感や帰属意識が生まれ、形式に縛られる。
稽古会は続けているが、他のいろんな流儀を本格的に学びに行く人が増え、参加する人の実力や研究も深まっている。稽古会は教える人と教わる人という一方的な関係ではなく、一人ひとりが自分流の開祖になることを目指している。各自が自分流の開祖をめざせば、面倒な組織内での勢力争いや複雑な人間関係は生じない。門弟同士の嫉妬や足の引っ張り合いは、武道の世界だけでなく、一般の会社でも上位のポストを狙ってややこしい人間関係が生じやすい。
(地位や肩書に固執する武道家というのも、器が小さいと思う)
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命を考えるシリーズ No.7
(これまで、死を考えるシリーズとしていたが、死という言葉は縁起が悪いんでやめとく)

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2021/12/03 (金) [命を考えるシリーズ]